にわっちのブログ

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泣くということ

time 2021/07/12

泣くということ

前に泣いたのはいつだろうか。成長すればするほどなんとなく感情が希薄になっていく気がする。

特に「泣く」という行為は著しく減っている。

今回は、そんな「泣く」ということをちょっと考えてみよう。

泣くということ

泣くということを涙を流す行為と捉える。すると泣くことはなにも悲しい時だけではないことがわかる。滅茶苦茶面白い時、涙が出るほど笑う。雄大な景色を見た時、感動して涙が出てくる。受験合格の時、嬉しくて泣いた。負けることが悔しくて泣く。郷愁に泣く。怒る時に涙に訴える人もいる。驚いて泣く人もいる。もちろん複数の感情が混じった涙もあるだろう。つまり、泣くという事は感情が昂った時に生じるものなのである。このように泣くということは、考える時、「どのように泣いたか」はとても重要だ。そしてその他に二つの重要な要素がある。

いつ泣いたか

いつ泣いたかを考えると、子供の時に泣いたことなぞ、今考えてみればてんでどうでもよいことだったりする。そして、子供の頃ではわからなかった物語に潜む悲哀で大人になって泣けてくるものもある。泣く行為に世代間のギャップがあることは自明である。子供の時の方が、感情が昂りやすかった気がするので、おそらく時系列で、人生における「泣いた」ときを整理すると、子供の頃の方がバリエーション豊かな感情の下、泣いていたに違いない。

どこで泣いたか

どこでというのは、具体的な場所ではなく、一人でシクシクと泣いた時、特定の人に向けた涙、公の場で泣いた時、のように自分が「泣く」所に立ち会った人物の多さや関係のことを指す。そこにも差があるのではないかと思う。小学校の時、周りの友達が泣いている所を見てもなんとも思わなかったが、高校や大学に入って、同級生が泣いているところを見ると結構動揺してしまう。泣く行為がめずらしくなってくるのだ。一人の時のどうしようもない悲しみの涙と、喧嘩した時に友達に見せた涙とでは意味が違ってこよう。

ぼくの泣いた日

ドラえもんの「ぼくの生まれた日」をパロったこの題名。高校の頃にこの題名で泣くことに関する本でも出版したら「世界一受けたい授業」に出られるのではないかと妄想していたが、今ではこんな感じで、どうでも良い一記事によって消費されるものとなってしまっている。妄想では、その本は文字通り私がいつどのように泣いてそれからどうなったのかをひたすら書くといった内容であった。売れるわけがない。というわけで、せっかくだから二個程書いてみようと思う。

がばいばあちゃん

小学校一年生の時だったと思う。私は祖父母の家にいて、テレビで「がばいばあちゃん」の映画の再放送を見ていた。その時なぜか周りに家族はいなかった。(いたかもしれないが記憶では一人)その映画を見て、子供ながらに号泣した。話の内容もほとんど思い出せないし当時どれほど理解できたのか謎だが、とにかく嗚咽が出るほど泣いた。ちょうど映画が終わる頃に母が部屋に入ってきて号泣している私を見て心配そうに駆け寄ってきた。映画で初めて泣いた時だった。

初めての独り立ち

初めて1週間以上親の元を離れて生活したのは、高校3年生の夏の時に画塾の夏期講習で東京に来た時だった。南千住の3畳間の小さなホテルを借りて2週間ひたすら絵を描き続けた。そこで初めて会う人たちと全く馴染めず、成績も芳しくなかった。ある日のこと、画塾で、先生にもうちょっと努力をしようよと諭すように叱られた。満員電車でサラリーマンに怒鳴られた。駅前の喫煙所が煙たかった。ビルの間から刺す夕日が痛かった。フラフラとホテルに帰っても荷物と畳と買ったコンビニの弁当しかない。あの時、一種のホームシックにかかったのだと思う。不甲斐ない成績が悔しかったし、高校の欠点補修を(強引に)免除してまできたことへの後ろめたさもあった。温まったチキン南蛮弁当がとてもしょっぱかった。私は終始無言で食べ、都会の音と猫の鳴き声だけが聞こえていた。

限界だったので、1日だけ塾に連絡も入れずに休んだ。その時にたまたまオープンキャンパスで上京していた中学の友達と秋葉原で会って飯を食べた。それにはだいぶ救われたと思う。残る講習はしっかりと出席できたし、成績も最後の最後で佳作くらいにまではいけた。あの二週間が人生に影響を与えたのはいうまでもない。

 

どうだろうか。面白いってコメントが5件以上来たら、何個か書いて、出版社に持ち込む。そして狙うは「世界一受けたい授業」出演だ。

案外忘れている、そしていいかげん。

嬉しかったことは、幸せなことなので、何度も反芻して記憶に定着するのであるが、「泣いたこと」というのは、あまり思い出したくない記憶であることが多いので、結構忘れているものである。おそらく人生で泣いたもののうちの5%ほどしか思い出せないと思う。また涙の出る時なんてとても気まぐれだ。カラオケの操作ミスで同じ曲が複数回予約された時に親に咎められ、泣いたのは小学校低学年の時であるが、ほぼ同じ時期に体験した曽祖母の死の時はなぜか終始泣かなかった。本当にいい加減だ。

最後に

いかがだったか。

「泣く」ことを思い出すと、なんだかんだ今までのことを思い出せた。美化されていない等身大の自分がそこに見えてきた気がする。恥ずかしいってのがまさりすぎてセクシーコマンドーになってしまいそうだ。(マサルくん)

あなたもいつ泣いたか、思い出してみて欲しい。ふとした感動が、悔しかったあの時が、昂ったあの日の感情が蘇ることだろう。

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にわっち

奈良県出身、大阪芸術大学中退、早稲田大学文学部日本語日本文学コース在籍中(2021年現在) [詳細]



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