にわっちのブログ

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浪人時代の思い出話第01回ーなぜ浪人を決断したのかー

time 2021/10/10

どうもにわっちです。

最近記事の更新を怠っていたので、改めて自分の記事をを全て見返しました。

 

すると、「大体同じ時間過ぎたので」

という記事に「浪人の時期のことは、また追々書くとして、」と書かれていました。

 

もうそろそろおいおいなのではないかと思ったので、今回書くことにしました。

 

浪人時代第一回目の今日は、なぜ私が浪人を決断したのかを紹介していきます。

(ここから敬体が常体に変わります。)

 

私は芸術大学に通っていた

何度も口酸っぱく言っているが、私は以前芸術大学に通っていた。大阪の南の僻地に大学はあった。

芸術大学の生活は楽しかった。趣味の合う奴が多かったし、初めて会うようなタイプの奴らと友達になった。そして何より自分の好きな絵を描くことがそのまま授業や評価、そこの学生たらしめる行動となっていたことが良かった。

入学してしばらくはそのような感じで、「浪人」も「退学」も何も考えていなかった。強いていうなら、記念受験+浪人の人を嘲笑うためにセンター試験を受けようと思っていたことくらいが「受験」関連の出来事である。

そんな私が、最初に「退学」を考えるようになったのはその年の11月くらいの頃だった。あまり親には言えないが、ドラゴンクエストⅣをひたすらやっていて、アルバイト以外はほぼ家に引きこもるという生活をやってしまっていたのだった。「退学」をするとなると働かなくてはならない。しかしどう考えてもお先が真っ暗な想像しかできなかった。ちょうど同じ時期にセンター利用で芸大に入った私では到底超えられない画力やセンスの壁にぶち当たった。今思い返せば、単に絵を描いていなかったのだから、当然でありそれに対して焦る必要などなかったのであるが、当時の私はもうダメだと芸術の道を諦めたのだった。単なる趣味ならばいいが、それで食っていくほどのポテンシャルが私にはないと確信したのだった。絵を描くこと自体を嫌いにならないままそう言った決断に至ったのがまだ良かったと言えよう。そして段々と「退学」を考えるようになってきた。

 

センター試験を受けたとき

そのようなぼんやりとした不安を抱えながら、廃人のようにゲームとアルバイト、偶に学校といった感じで10-12月は生活をしていたが、ある日、1月に行われるセンター試験の受験票が届いた。忘れていたわけではなかったが、このとき少しハッとした。記念受験にするにはもったいないから、少しだけ頑張ってみようと思った。これであわよくばもう少し上の芸術大学(ムサタマなど)のセンター利用に引っ掛かればいいなんてことを考えていた。12月は少し、ゲームの時間を削って、数学と理科基礎の勉強をした。

そして迎えた、センター試験本番。会場は去年と違ったところで、東大寺の生徒がたくさんいたと記憶している。残念ながら私が煽ろうとしていた友達は別会場のようで、代わりに小学校の頃のクラスメイトと出会った。彼は、広島大学を志望し、真面目にコツコツと浪人をして今回のセンターに臨んでいたようだった。そいつはこの後見事に広大合格を果たすが、その真面目な姿勢をみて、自身のちゃらんぽらんさが恥ずかしくなったのはいうまでもない。

センターの結果は、なんと現役の時よりも少し高かった。1ヶ月の勉強で今までを超えるという現役の時は何をやっていたんだと言わんばかりのものだったが、この時にもう少し頑張ればもう少し上の方に行けるのではないかと思った。ちなみにムサタマのセンター利用には届かない点数であった。この時に中途半端に武蔵美とかに行っていたら今の自分はない。

煽りたかった友達とは別に、応援していた浪人の友達がいた。そいつは、現役の時に横市を蹴り、旧帝大に固執した奴であるが、その確固たる信念は私の憧れでもあった。そいつが私に浪人はいいぞと吹聴してきたのである。夏休みや冬休み、センター終わりなどに会った時に(そう言った意図はなかったと思うが)浪人は大変ではあるが意義のあることであることを私に訴えかけてきたのだ。「退学」すら考えていなかった夏の時には適当に受け流していたが、この時期になってくると「浪人」の選択肢を考えるようになってきたのだった。彼はしっかり名古屋大学に受かっている。

ちなみに煽りたかった友達は”無事”関西学院かどこかに受かっていた。

嵐の活動休止とその影響

それでもなお私は躊躇っていた。せっかく入った大学を辞めて本当に良いのだろうか。親の負担も世間の人に比べて倍以上お金かかってしまう。経済的な負担だけでなく精神的な負担ももちろんだ。今までの「辞める」であるとか「浪人」だとかは、いわば絵空事のような夢想だったのだ。そんな時、バイト帰りの牛丼屋、母親のLINEで「アイドルグループ嵐の活動休止」のニュースを知る。大ファンである母は結構ショックだったと思う。平静を装っていたが、文面からは負のオーラが滲み出ていた。

私は動かなくなるまでそれこそ少年隊のようにいつまでも活動を続けるとばかり思っていたので衝撃であった。そのニュースを見て、いつまでも変わらないものなんてないのだと思った。やめることを本気で決断したのはこの出来事からだった。

この時期に大学から退学届と休学届けを受け取る。

それからというもの、私は辞めるため、浪人をするために準備を始めた。まず初めに大学に行き始めた。浪人をするならいまさら学校に行ったってしょうがないではないかと思う。今の私もそう思う。ただ、当時の私は、大阪芸大生あるある(?)の「留年したから大学を辞める」の風潮に抗いたかったのだ。他の奴とは違うのだということを示すためにしっかりと学校に行った。結局ギリギリではあるが単位数が足りて二回生に進級。デジタルアーツ専攻に進んだ。次に私が始めたのは塾選びである。宅浪や通信は意志の弱い私には難しく、東進や河合のような集団塾は苦手であったので、自然と2,3個に絞られていたのだが、先程の名古屋大合格の友達に誘われて(友達紹介で図書カードがもらえた)彼が通っていた塾に通うことになった。その次に周辺の整理である。物だけでなく友人達との交友関係に蹴りをつけなくてはならなかった。ただここでサプライズ好きの私は辞めることを黙っておいた方がいいと思ったので、退学届を出した日に偶々居合わせた友人以外には退学や浪人のことを話さなかった。(結局浪人の一年間を通して私の口から浪人したことを言ったのは、大学の友人と名古屋大の友人以外では中学の友人3名と高校の友達1名くらいだった。)所属していた二つのサークルも表紙の絵を描いたり色々な手伝いをして楽しめるだけ楽しんだ。

そして最後にやった準備、それは「親に話すこと」だった。

おやじと話す(大事MANブラザーズバンドの曲ではない)

まず最初に母親にLINEを送った。するとそういうのはお父さんに言いなさいと言われた。

次に父にLINEをした。するとそういうことはお母さんと相談しなさいと言われた。

母親にそのことを言うと、私はいいけどお金を払うのはお父さんだから最終的にはお父さんと話しなさいと言われた。

次の日、電話が向こうからかかってきた。内容としては「その話を春休みの帰省の時に聞かせてください。」とのことだった。

この一連の流れは私の断片的な記憶を再構築したにすぎないため、必ずしも真実とは限らない。LINEのトークは残っているが、それを見返して正確性を保つほどこのブログに対しての熱意はない。ちなみにこの後も基本そんな感じだ。

1月末には学校が終わるので2月の中旬くらいに帰ったと思う。いつもと変わらない感じで出迎えてくれたのが妙に怖かったことを覚えている。ご飯を食べたりしてあっという間に夜になった。そして親たちと話すこととなった。

親の言葉をあまり覚えていない。当時の中では人生で一番緊張した瞬間だったからほとんど記憶にない。話の内容は、大学を辞めることに関しては一切反対はしない。だけれど将来を見据えた選択をしなさい。とのことだった。親は二人とも薬学部出身で要は「手に職」ついた学科を卒業しているのだ。なので、手に職のついた専門職につけるデザイン系への進学にも寛容であったし、大学を辞めて別の大学へ進学するという選択自体には反対しなかった。ただ手に職のないところへの進学を心配していたのである。出された条件として、期間は一年でそれ以上は就職、勉強をするなら自腹。そして芸術大学を辞めるに耐える将来性があることを示して欲しいと言われた。(あと、芸大の学費は働き始めてから返すように言われた)将来のことなんぞ全く考えていなかった私は恥ずかしくなった。それと同時に私のことを心配しているのと同時に応援してくれていることを改めて感じ、その日の夜は布団の深いところで静かに泣いた。

結局、私が行きたかった昭和の文化や歴史を学ぶ学科(人文学系)は学問自体にビジネスと直結するものを得られるのが絶望的だったので、志望校の(当時は関関同立や明治大など)卒業後の進路を示す他なかった。出版系に進めるのだと力説した。自身も親もあまり納得のいく理由になっていなかったとは思うが、熱意は伝わったのか浪人を許してくれたのだ。厳密には赦しの言葉を直接受けてはいないが、塾を決めたり参考書をもらったり勉強の準備を私が初め出したので有耶無耶になったと言った方が正しい。ともかく、親から実質的な許しがでたのだった。

 

 

そして大阪芸大の下宿を引き払い、私は浪人を始める。

 

 

第一回 なぜ浪人を決断したのか 

 

次回予告

今回は初回ともあって大ボリュームでお送りしたが、次回からはボリュームを抑えて、短文連載にしていきたい。

当分は時系列に沿った浪人時代の概要の紹介にとどめるが、それが終わり次第より詳しい思い出、(早稲田大学文学部の試験当日、“あるもの”に心を奪われて試験に遅刻しかけた話など)を時系列関係なく紹介していこうと思う。

とにかく得てしてはたまたちなみに次回は、「なかなか身が入らなかった浪人最初の2ヶ月」について書こうと思ってる。現段階では草稿すらないのでタイトルや書く時期など変動があるかもしれないがそこら辺は御了承願いたい。

 

コメント感想、見辛いなどのご意見もお待ちしていなす。

 

それでは。

 

 

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にわっち

奈良県出身、大阪芸術大学中退、早稲田大学文学部日本語日本文学コース在籍中(2021年現在) [詳細]



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